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古本とビールの日々


by oxford-N

オックスフォード便り 57  「パリの30年 (2)」

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『パリの30年 わが文学生活』は、ドオデェ自作の解説を交互に入れていく構成になっている。だから15章のうち、5章までは自作の成立、解説、評判などにあてられている。

『東京の30年』でいえば、「私の最初の翻訳」「『生』を書いた時分」「『田舎教師』」などの章に相当する。

花袋の方がより外的な変化に気を配っている。これは東京自体のめまぐるしい変化が花袋にそのようにさせたのか、花袋が好んで変化する都市のすがたをとらえようとしたのか。

花袋がすぐれた紀行作家であることを考えれば、変貌する都市を筆にとどめようとしたとて不思議ではない。

『パリの30年』の冒頭はこのような書き出しになっている――

「何とひどい旅だ!30年たった今日でも思い出すだけで、圧迫感を覚えてしまう。冷え切った足は氷の足かせをつけられたようで、まる2日間も鶏小屋のような三等車に閉じ込められたままだった。しかも厳寒だというのに身につけているものといえば、夏の軽装だけとは」

「16歳になったばかりで遠い田舎からでてきた。それまでは地元の学校で守衛をやっていた。文学に没頭するため、このパリにやってきたのだ!旅費を払ったらポケットには小銭しか残っていなかった」

「寒さ、貧乏」が心身ともに痛めつけられている主人公のいわば記号となっている。『東京の30年』の主人公も同じである。
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最終章はフロベールのサロンで紹介されたロシアの作家ツルゲーネフの印象で締めくくられる。まずサロンの様子から――

「話題はいつもの愛と死というテーマにもどっていた。ソファに横たわっているツルゲーネフは一言も発さない。あなたは死をどのようにお考えですか、と質問を向けてみたところ、死についてなど1度も考えたことがありません。ロシアでは死について誰も考えませんよ。それはスラブの霧につつまれた曖昧模糊としたものですからね」

「ツルゲーネフの返答はロシア民族の気質、そして彼自身の才を明示するものであった。このスラブ特有の空気が作品をつつみ、茫々たる感をかもしだしているのだ。口からこぼれる言葉も何やらスラブの霧がかかっているようであった」

このロシアの老大家は、ドオデェにたいして友好的な態度で接するのだが、亡くなってから、ドオデェの作品を批評した一文が雑誌に掲載された。

そこには痛罵をきわめたことばが並べられていて、あの友情はいった何だったのだろう、と不信感でいっぱいになる。人間の二面性を主人公が不可思議におもうところで、『パリの30年』の幕はおりる。

谷崎の『青春物語』の方が『パリの30年』に近くてよく似ている。『東京の30年』は、都会の変化にも重点をおいているため、その分、作品自体が軽くしあがっている。だからこそ今日でも読者にむかえられるのであろう。

「小説家に君がなろうたってそれは無理だよ、それより紀行文の方がいい」と、博文館の新しい社主は、作家志望の花袋を切りすてる。社主の評価はこの作品だけに限っていえば、当をえている。だが、それはわれわれ読者にとっては幸せなことではなかろうか。(N)
by oxford-N | 2008-08-01 05:21 | 古本