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古本とビールの日々


by oxford-N

オックスフォード便り 73 「リル (2)」

このパサージュをいかして開催されている古書展は、じつに本が見やすい。日本の古書展も会場にこだわることはないのではなかろうか。雨の対策さえできていれば、どこでも場所をえらばないと思うのだが。

今回、古本とのめぐりあいでうれしかったのは、1978年1月14日から2月25日までブリュッセルで開かれた「ヴァレリー・ラルボー」展のカタログを入手できたことだ。しかも13ユーロを8ユーロに値引きしてくれた。
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ラルボーについては、「オックスフォード便り」の第7回を参照していただきたいが、今回このカタログをみて再認識したことだが、ラルボーは、単なる「翻訳家」ではなかった。

そもそも「翻訳」にたいするとらえ方が、かなりフランス固有のものがあることにまず注目したい。

誤解を恐れずにいえば、フランスは翻訳を学問の中心に据えているようなところがある。学問的伝統になっているといいかえてもよい。

コルネーユ、モリエール、ボワロー、ラシーヌなどの例をみればよくその辺の事情がのみこめるだろう。これら古典作家たちは、すべてギリシア、ラテン文学を「翻訳」してから、自己の作品を書き出している。

ロンギナス、アリストテレスなどの訳をまず試みている。文学者として歩み出すにあたり、何を基準に歩んでいくかという示唆をえるため、ぜひとも必要な過程であった。

この伝統は、現代作家についてもあてはまる。クローデル、ヴァレリー、モーロワ、デュ・ガールは言うに及ばず、たとえば、プルーストがラスキンを、ジッドがコンラッドを、またボドレールがポーを、プレボーがリチャードソンを、「訳してから」世に出た例をあげれば十分であろう。

歴史的に有名な例をもうひとつあげておこう。デイドロが百科全書の編者に採用されたのも、イギリスの美学者シャフツベリーの翻訳が出版社の目にとまったからこそであった。

そのような次第であるから、翻訳は文壇への登龍門の役割をはたした。20歳のネルヴァルは、ゲーテの『ファースト』を、18歳のミュッセは、トマス・ド・クインシーの『アヘン常用者の告白』を訳して、文才を認められている。

1705年に『性格論』の名のもとに英訳された、ブルイエールの「翻訳」について、意味深長な言葉に耳を傾けてみよう――「翻訳は銅貨と同じで、金貨と同じ価値がある。利用に資する点からみれば、金貨よりも重要かもしれない。ただいかんせん、基本通貨であるため、いつも軽いのが惜しまれる」

間違っても、『悪の華』を、ポーの短編の「翻訳」よりも下に見るようなものはどこにもいないだろう。
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ラルボーにおいては、「翻訳」がさらに大きな役割をになってくる。それは彼自身のみならず、イギリス・フランスの両文化にとっても大きな転換をもたらした。(N)
by oxford-N | 2008-08-21 14:07 | ベルギー