古本とビールの日々


by oxford-N

オックスフォード便り 74 「リル (3)」

ヴァレリー・ラルボーがフランス文学界に名前を登録したのも訳業を通じてであった。わずかアリストファーネスの訳と15編の詩をおさめただけの詩集しかなかった文学志望者が、一念発起、10年の歳月をかけて、サミュエル・テイラー・コールリッジの傑作『老水夫』の訳を問い、認められるところとなった。
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前にもふれたが、幼年時代からヨーロッパを旅行して過ごすような生活が可能であったため、ギリシャ、ラテンの古典の素養に加えて、英語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語が堪能で、まだほかにもルーマニア語、カタロニア語も自由にあやつったという。

戦後の沈滞した文学界が新風を望んでいたとき、アメリカの民衆詩人ホイットマンを紹介して、注目を集めたりしたが、汎ヨーロッパ的に重要になる事件がラルボーの身のうえに起きた。

ジョイスの『ユリシーズ』との出会いである。1920年のクリスマスにジョイスとパリで邂逅し、まだ『リトル・レヴュ』の連載中の第14挿話を読み、衝撃をおぼえ、友人に「片ときもユリシーズが忘れられない」と心中を告白している。

それからほぼ1年後、1921年12月7日にパリでジョイスの『ユリシーズ』について講演をする。まだ作品は刊行されていないので、ジョイスから原稿を借りて準備をすすめた。

じつはジョイスも紹介者、翻訳者を求めていた。ジョイスの誕生日である1922年2月2日、『ユリシーズ』はパリで初版が刊行された。そして4月1日号のNRFにラルボーの『ユリシーズ』についての講演記録が掲載された。

同10月にエリオットが自分が運営していた雑誌『クライテリオン』にこのフランス語の記事を翻訳して転載した。ほぼ10年もの間、ラルボーのユリシーズ論を超える評論は現れなかった。それほどの完成度を保っていたのである。

1929年に初めての『ユリシーズ』フランス語訳が刊行されるが、それはジョイス自身とラルボーが協力して、なしえたものであった。また、スチュアート・ギルバートが、抜きんでた批評『ユリシーズ論』を書くが、それもラルボー、ジョイスが手をかしたものであった。
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ラルボーは『読書という悪徳』のなかで、「一読者に甘んじ、最良の友にだけ、直接、愛読書を告げよう。その本は誰からも注目されていないが、20年もたてば有名になるはずだ」と、作中人物の口をかりてもらしているが、翻訳者としての自負にあふれたことばである。

ユーロスターの駅に立ち、パリの方向をみると、ジョイスとラルボーが出会った書店シェークスピア・カンパニーがかつてあったのだと思えてきた。(N)
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by oxford-N | 2008-08-22 05:40 | ベルギー