オックスフォード便り 102 「古本病」
2008年 10月 07日
よく特徴が捉えられている。薄くなった髪の毛、わずか残った髪の毛も、毛先がきちんと整えてられていない、とは観察が細かい。
他人の古着をヨレヨレになっても着込み、蝶ネクタイだけは新品を購入。かぎ裂き、インク染みもあちこちに…。靴もくたびれ…。
古書店主には尻尾がついている。人をよくだます狐のシッポは、本の黄ばみ(foxing)も意味する単語だから、きついジョークになっている。
本の専門用語といえば、一番うえの単語t.e.g.をごらんあれ。これはつまり「天金」を意味する。本にほこりがつかないように、上ページのところに金箔をぬる。つまり「あたまはテカテカ」という意味。
戯画化されているが、世間一般の目からみればこのような風に、古書好きは見られているのだろう。
デパートの古書展示会で、こうした風采の人がたむろして、開店と同時に脱兎のごとく、走りなだれこむのだから、一般客からみれば、「何だ、あれは!?」となるのだろう。
ふっと気づく時がある。たとえば東京古書会館で地下から入り口まで列をなしていて、自分も中間あたりにいるとき、「何とまわりの方々と溶け込んでいることか」と。
これも古本病のひとつだろう。つまり熱中しすぎてまわりが見えなくなり、服装などに頓着しなくなる。これが初期段階で、あとの症状は徐々に進み、気づけば家じゅう古書だらけ。
もうこのときは治療不可能である。対処療法もない。恩師の蔵書を処分して、トラック4台分を見送り、古書好きの末路は重々承知しているのだが、「まだ自分とは関係ない」と思ってしまうところがなさけない。
遺された奥様にせめて形見に数冊残しておいては、と進言したところ、「私たちの着物がすべて本になりました」と恨み言をいわれ、「孫がこの部屋の後にはいりますから、さっさと汚いものを処分してください」と。
当事者にとっては「宝物」なのに、一方にとっては「ゴミ以下で恨み」の対象でしかない。
昼ごろ、旧知の古書店主がやってきて、積み上げられた古書の山を一巡して、こともなげに金額をもらした。「この頃、こういう商品は流行らないからね」という顔つきは、いつもの柔和な顔とはまったく違っていた。
これが現実だろう。亡くなった黒木書店の主人は、「中古もので本ぐらいですよ、金になるのは」とよく言っていた。ありがたく思えと言わんばかりに。
そういえばこのセーターを買ってから、もう何年もたつ。読書の秋、まず服を買いに行こう。
カットはリアの愛猫フォス。
by oxford-N
| 2008-10-07 16:26
| 古本