古本とビールの日々


by oxford-N

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昨晩、気づいたら夕食を食べるのを忘れていた。もうどの店も開いていないので、イタリア人が経営している食料品店へ行きサンドイッチでもと思い、出向いた。

飲食料を何点か購入して、ふっと雑誌の棚をみると『ブック・コレクター』が出ている。あれっ、なぜこんなに早く出たのだろうと思い、手に取り表紙をみると「アリス特集」で、300号記念の文字が輝いている。
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空腹も忘れ思わず表紙に見入ってしまった。300と一口に言うが、人間で例えてみれば、誕生して立派な者家人になる歳月だ。

1984年3月号が創刊号である。これまで本好きがときめく、あらゆるジャンルが特集されたのではないだろうか。人気作家は何度も特集され、その都度、情報を教えられる。今回のアリスだって、ルイスキャロル特集も含め、8度目の登場である。
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今月号も元気だ。巻頭にオークション情報が載るというのは日本の古書雑誌と大いにちがう。11月13日のクリスティーズの予告案内がでている。

ヘミングウェイは早々に詩人の筆を折ったが、『3つの物語と10の詩篇』を1923年に出している。300部限定のラッパーつき美本。予想価格は7000-10000ポンド。

DHロレンスの『チャタレー夫人の恋人』も署名入りで、ロシア人翻訳家への献呈本。3000-5000ポンド。狙い目はTSエリオットの『4つの四重奏』で、FRリーヴィスの書き込み本である。400-600ポンド。

本文の3分の一は古書売買コーナーで、思わぬ逸品がでる。以前、雑誌『パンチ』の大揃えが、あのワインレッドの装丁で統一された目もくらむような美本が、じつに安価で出品され、友人に仲介したことがあり、今でもその方とはメル友である。

この古本雑誌がどのように編集されていたのかずっと気になっていたのだが、今回、編集者紹介があり、全貌がわかった。

興味深いのでプロフィールをお伝えしよう。6人いるのだが、毎日出社し、何もデスクをいっしょに並べてはいないのである。

創刊以来携わっているのはただひとり、リチャード・ダルビィ。これまで200編以上の記事を書いてきた。得意ジャンルは19世紀挿絵本で、ブリテッシュ・ミュジアムから『子供挿絵本の黄金時代』を出している。

ミステリーの専門家でもある。ゴースト・ストーリーファンでもあり、これまで50以上のアンソロジーを編んでいる。
20年以上編集をしているスティーヴン・ハニーは、本雑誌にはぜったいとりあげられないノン・フイクションの本を送りつづけているプロの編集者である。ミリタリー・ヒストリーとアメリカ現代小説の愛読者でもある。

面白いのは、北ウエールズ在住のアンドリュ・トマス。いろいろな職業に手を染めたのだが、自分に与えられた天賦は「ものを書くこと」だと気づき、以来、作家業に専念している、とか。

他にも多士済々。女性編集者もいる。なるほど、どうりでこのような雑誌ができあがるのか、と納得した。

これまでの特集で興味をひかれたのは、ジェーン・オースティン、ベックフォード、ジョンソン、シモンズなど、初期雑誌、山岳本、旅行記、ホガースプレス、日本なども忘れがたい。「そんな本があるのか!」という思いを何度もした。
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次回は特集である「挿絵の国のアリス」をお届けしよう。
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by oxford-N | 2008-09-28 17:38 | 古本
ひとつの仕事が一区切りついたので、自分へのご褒美として映画を2本与えることにした。なんとささやかなご褒美なのでしょう。

映画館で映画をみるのは何年ぶりだろうか。日本は入場料が高いので、こちらでまとめてと思って一度、映画館まで行ってみたのだが、6.5ポンドから7.5ポンドで何も日本と変わらない。だからよけいに疎遠になった。

第一映画はリスクが大きすぎる。しかもたいていカラ振りだ。見終わったときの虚脱感とむなしさ――この時間をどうしてくれる。

もう主人公になって映画館から出る年齢でもないが、それにしても「損をした」という気分が深い。何度も失恋したら恋もしなくなるのと同じことである。

今回は対照的な2作品を選んだ。ひとつはアル・パチーノとデ・ニーロが主演しているニューヨークの刑事もので、もうひとつは、初めて映画出演するという無名の新人ばかり揃えたえたブラジル映画である。

前者のタイトルはRighteous Kill、後者のタイトルはLinha de Passe。
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前者はいわゆるハリウッド映画で主演俳優に頼りきる。ふたりともすごくふけたという感は否めない。それでも存在感があるかというと、風に舞う枯れ葉のごとくである。

もうそれほどの求心力もない。となると台本が勝負になる。これがお粗末極まりない。オードリー・ヘップバーンが映画をさそいにきても映画にはぜったいに行くものかと心に誓った。

古本なら2ポンド均一の本が4冊も買える。この代償は大きい。古本で4三振はあり得ない。どうしてくれる、と愚痴りながら次の映画館へ向かった。

ブラジル映画でサンパウロを舞台にしている。父親がすべてちがう4人の兄弟が逆境からいかに立ち直っていくかという物語である。母親は5人目をさらに宿しまたもや夫に去られてしまっている。
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4人が各人各様の道を見つけようとするのだが、国民的球技であるサッカーをうまく使って、テーマの意図を浮き上がらせようとする。パスがなかなか通らないように人生もそう簡単にはいかないのだ。

台本もよく練られていて、監督がふたりで手がけて、変則だがこの連携はうまく機能している。ネタばれをしてはいけないのでこの辺で紹介は止めておくが、映画館を出た時の感慨はまったくちがった。「これが人生だよな」と深くうなずいていた。

教訓がひとつ得られた――俳優中心でつくられている映画は見るのをやめよう、と。でも近所に「あのスターが住んでいる」ということを誰かに言いたいのだが、これが情けないところか・・・・。
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by oxford-N | 2008-09-27 06:45 | 古本
オックスフォードでは魚が食べられるのか、とかフィッシュ・アンド・チップスしかないのだろうか、とか魚にまつわる質問をよくますので、ここでお応えしておきましょう。
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これはオモチャじゃありません。でも、まさかこのようなサメを丸ごと食べるようなジョーズ人間はいません。これはマーケットの魚屋さんのシャレです。でも本物ですよ。

週末の客人にお出ししたものです。日本でいえば魚貝各種盛り合わせというところでしょうか。時計回りに、ツブ貝の蒸したもの、小エビの甘酢あえ、ニシンの酢の物、スコットランド産のカニ身詰め。これがオードブルです。
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蟹は日本のポン酢、しかもゆずポン酢が大好評です。ポン酢は国境を超える。すごいやつです。

これはマグロのカルパッチョです。でも、あまりにも見事なトロだったので、まずはわさび醤油でいただくことに。一同声なし。こちらは赤身もトロも区別がありませんので、どうしてもトロを選んでしまいますよね。
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まず安い!日本の五分の一くらいか。あとは本わさびが欲しい。チュウブにはいったハウス何とかという製品で妥協はしたくない。

さいごはダックの焼き物です。北京ダックのぶつ切りだと思ってください。ダックをハーフ、つまりアヒルの身体半分が6ポンド。結婚式で出される、あのケチくさい2、3切れしかでないことを考えると夢のような分量です。
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美味しいタレが付いてきます。でもこれは魚じゃありませんでした。失礼しました。もっとレモンの皮をきれいにむく練習をしましょう。

このあたりになると床にワインの空瓶が4、5本転がっています。飲みすぎに注意しましょう。
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by oxford-N | 2008-09-25 03:46
近代の童話では断然、ワイルドのものがいい。『幸福の王子』を読んで涙腺が乾いているようではどこか身体が悪いと考えた方がいいと思う。

こちらに来て以来、ブラッウエル書店で売れ残っていた本がある。また表紙がハデで、よく目立つ。売れ残り、かわいそうとおもい、幸せの王子にならい購入。3ポンド。
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売れ残ったのは内容が凡庸だからではない。売れすぎたのだ。ワイルド伝の白眉である。著者モンゴメリ・ハイドは、司法行政に永年たずさわり、「ブツ」つまり証拠にはうるさい。

ハイドが蒐集したワイルドのものは、ホテルの領収書から秘密の写真まで、すべてこの伝記のなかにバランスよく投入されている。

評判になった文学的伝記であるリチャード・エルマンのワイルド伝はハイドとくらべると微温的だ。誤りが多くて「伝記の訂正本」までドイツから出されるような始末である。

話をもとにもどそう。ワイルドには童話を語ったふたりの男の子がいた。シリルとヴィヴィアンである。

ワイルドの愛読者なら二人の名前には聞き覚えがあろう。というのも「虚言の衰退」という名エッセイで、ワイルドはふたりを実名で登場させ、対話させているからである。吉田健一の名訳が懐かしい(たしか「要新書」にはいっていたか)。
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ワイルドがあの忌まわしい事件で有罪になり、家族・親族にはすさまじい雪崩がおそった。今日では考えられないくらいの衝撃であった。「抹殺」以外に手段はなかった。

名前をすてて、遺児となり、ヨーロッパを亡命者のように転々とする。パリで悲惨な最期をとげたワイルド自身の話は文学史の一コマにまでなっているが、この子供たちの話は、あまり知られていないのではないだろうか。

9歳の弟のシリルは、兄とも別れ、母とも死別し、ひとりで孤独な日々を送っていた。

事件の反動からか、軍人となり、ことさら戦場へ志願していき、第一次世界大戦中にドイツ軍狙撃手の弾丸で射殺される(1915年5月9日)。わずか30歳で幕を閉じる生涯であった。

その戦場からわずか2、3マイルしか離れていないところに、ひとつ違いの兄ヴィヴィアンはいたという。

ヴィヴィアンは、父が亡くなったと教えられ育てられた。しかも文学者だからと言っても、その業績たるや無きにひとしい、と親族からは言われていた。

だから「真実」を知ったとき、積もっていた雪のなかに身体をうずめ、このまま自殺しょうと考えたほどのショックを受けた。

「学校では皆が自分に後ろ指を指している、といつも感じるようになっていた。きっと自分の家族には恐ろしい口にはいえないようなことがあるのだ――そんな名状しがたい思いにとらわれていた」

これは後年、『ワイルドの息子』という自伝のなかで告白している一節である。

父の作品に初めて接したのは、ケンブリッジ大学で法学を専攻していた2年生の時であった。その時でもまだ父の所業は許されるものではないと感じていた。

だが、そうであれども、あまりにも厳しすぎる裁断ではないのか、とも。ヴィヴイアンが訴えているのは、刑期のことではない。作品すべてを抹殺し、刑期を終えてからも断罪しつづけた世間にたいして、である。

47歳で葬られたワイルドは、時代の、ヴイクトリア朝社会の、「お体裁」をことさら重要視する社会の犠牲者であったという見方が今日では強い。

相手も悪かった。判事のことである。アルピン・クラブの会長を務めるほどのスポーツマンで、ワイルドの人格など一瞥もしない、また理解できない裁判官であった。

軍役を引退して、ジャーナリズムの道に進んだヴィヴィアンは幸せであった。1908年に『ワイルド全集』が出版されたとき、200名もの文学関係者が駆けつけた。そのなかには、トマス・ハーディ、ヘンリ・ジェームズ、H.G.ウエルズなど錚々たる文学者も交じっていた。

1954年、『ワイルドの息子』を出版して、何千通もの心情あふれる激励のメッセージを受けとった。最後の自伝(1966年)には、「すべては時が洗い流し、私のいるところには陽の光が注いでいた」とあった。齢80歳、「幸福の王子」のような生涯であった。
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by oxford-N | 2008-09-23 21:00 | 古本
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今、世界のおとぎ話の編集をやっていて、楽しくて仕方がない。やっかいな他の仕事を忘れさせてくれる。でもなぜこのような清涼剤になるのだろうか?

フランス編のシャルル・ペローを編纂している最中だが、おなじみのシンデレラ、赤ずきんちゃん、長靴をはいた猫…など、おとぎ話の代名詞のようなキャラクターに囲まれ、思わずほころんでしまう。
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なごませてくれるひとつの大きな誘因は、挿絵にある。ペローはギュスターヴ・ドレが最高の挿絵であると、なぜか決まってしまっている。ちょうど『アリス』におけるテニエルのように。
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それでもいろいろな画家が原作に触発されるためか、ペローに挑戦している。もとの話を凌駕しようという野心作もあれば、忠実に「味」を引き出そうとするものもある。

一概にどちらがいいとは決められないが、読み手の気分次第というところか。それくらい鷹揚に構えていても大丈夫である。

というのは原作の「力」が並外れているからである。どの作品をとっても作中人物はひとり歩きができる。どんなに幼い子供でもシンデレラ像、赤ずきんちゃんに狂いはない。

ジョイスのモダニズム文学が華やかな頃の論争の的であった「作中人物論争」など簡単に吹っ飛んでしまう。

ペローはルイ14世の激動時代を生き抜いた人間だ。古典の作品がすぐれているか、いや、現代の作品がまさる、といった、新旧論争が、当時も、たえずくりかえされていた。

ルイ14世以後の「現代作品」を擁護した浩瀚な著書こそ、ペローは自己の最大傑作として疑わなかった。(今日では「あくび以外は何も出ない」作品といわれている)。

ところが、政治の表舞台から失脚して、はじめて時間ができ、子どもに語った「おとぎ話」こそ、今日、ペローの名声を脈々と伝えている。

もちろん、すべてペローの創作ではない。ほとんどが翻案したものである。だからと言ってペローの偉大さが減少するものではない。

文化は次の世代に継承されてはじめて文化となる。その意味で「継ぎ木になる存在」こそ評価されてしかるべきである。

音楽と同じように、言語の壁など一足飛びに越えてしまう。すごいキャラクターだ。誰が次のペローになるのだろうか。
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この挿絵が示すように、おそらく、今、おとぎ話を読んでもらっている子どものなかから生まれてくるであろう。きっと…。そしてかならず。
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by oxford-N | 2008-09-23 18:09 | 古本
新しい古書エッセイ集が届いた。題して『古本蟲がゆく』。著者は池谷伊佐夫氏。

最初、書名をみて分からなかった。「古書虫」と思いこみ、紙魚(しみ)のことかと思い、ずいぶん変な書名だなぁ、と思いあぐねた。昔、古書随筆に紙魚をタイトルにしたものがあったのでその影響かもしれない。
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英語の「情熱家」を意味するenthusiastから転用して、「―の虫」に相当する命名であった。

タイトル全体は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』のもじりとか。東西の古書展・即売会を縦横にめぐり、筆は絵筆とともに止まることを知らず。


一読、すごく楽しい本で、これは古書エッセイお新しい型かもしれない。どこが新しいかというと、未知へいざなうのではなく、既知へと舞いもどらせてくれるからである。

「ふるき」を訪ね、「ふるき」にもどる、まさに古書の精神にふさわしい。「あの店のあの棚」を実感させてくれる。

著者がイラストレーターである強みをいかんなく発揮している。その一例をじっさいに紹介してみると、納得していただけるだろう。
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これは五反田の古書展風景である。30分早く開いてくれる、うれしいスポットでもある。しかも廉価コーナー。私などはここで両手いっぱいになってしまい、2階へあがるのにひと苦労する。

写真ではこのように一面的だが、この著者の手にかかると、たちまち3次元の世界に変貌する――すごい!
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この立体空間を支えているのが著者の独特なユーモア感覚である。

田村書店の店頭におかれているバーゲン本を目指して人々がむらがる――「…いつも人がむらがっている。私は『タムロ書店』と呼んでいる」という類のダジャレがこれでもかと満載で、「笑い袋」の感がある。

なお、『諸君!』に連載していたので、文芸春秋の担当記者が取材に同行しているのだが、この買いっぷりがまたすさまじい。

本好きの担当者をつけたのか、担当者がたまたま本好きだったのか、どちらかわからないが、膝栗毛の感があり、なごませてくれる。

雑誌『文芸春秋』の一番おもしろいところは最後の編集後記だから、まさに楽屋落ちの連続で、これが仕事と思うと、来春の入社試験を受けようかとすら思えてくる

著者はそろそろ還暦を迎え、リタイアの年齢だが、それでも奥さんの目をかすめ、高価な本を購入する。欲し本をためらわず(といえば言いすぎか)買う姿勢はすがすがしい。

お別れがきてこれまで集めた本を二束三文で売られてはかなわないと危惧し、娘にだけは「こっそり」と購入価格を漏らしておく。哀しいかな、これが等身大の古書フアンのすがたなのだ。
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by oxford-N | 2008-09-18 20:21 | 古本
多くの方からリンゴの注理法を教えていただきました。ありがとうございます。

じつは我が家のリンゴの木は、キッチン・アップルといいまして、調理用専門の木でした。だからこのままでは酸っぱくて食用には適さないそうです。

無知をさらし、まことに恥ずかしい次第です。そしてスーパーマーケットに行くと、リンゴ料理を紹介するパンフレットがあふれていましたので、おかえしにその一部をお届けします。
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その紹介によるとリンゴは、一年中イギリスでとれ、いろいろな味を楽しめるとか。10種類近くのリンゴが紹介されています。リンゴ大国なのだ!

これはリンゴとチェーダ・チーズでつくるスコーンです。準備に10分、調理に15分とか。
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時計回りに、メイプルシロップで調理したリンゴ料理です。縁日のリンゴ飴みたいでしょうか。
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つぎはショウガを煮詰めたシロップを応用した調理例です。

さいごは、くるみとチーズを詰めものにした一品です。
West Country Apple Dappy という料理です。見るからに美味しそうですが、レモンジュースとローズマーリで調理して、オーヴンで焼き上げるとか。これは難しそうですので、まずどこかで試食してからにしましょう。
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リンゴといえば、高校の時ならった、”apple-pie bed”ということばを思い出します。ベッドの毛布で足を伸ばさせないようにする一種のいたずらですが、なんとなく「あたたかさ」を感じさせる遊びですね。

リンゴを食べて秋から冬を乗り切りましょう!
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by oxford-N | 2008-09-16 18:30
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一ヶ月ぶりのロンドンでの古書展。会場はいつものようにロイヤル・ナショナルが午前10時からはじまり、正午からはホリディ・インで開催される。2会場を掛け持ちで回るわけだ。会場の移動には1分もかからないから至便このうえなし。

早く到着したので、近くのラッセル・スクエアで小休止。噴水も心なしかうれしそうに水飛沫をあげている。夏でもない、秋でもない、いい季節だ。

会場に入ると、いきなり3ポンド均一棚にエドワード・リアの書簡集が並んでいた。これはうれしい。先日、アシュモリアン・ミュジアムでリアのスケッチを手に取り見せていただいたので、こうした暗合に心躍る。
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リアはルイス・キャロルと同時代のナンセンス詩人として有名である。筑摩文庫に『ナンセンス・ブック』が『フイネガンズ・ウエイク』の訳者の手で訳されている。

ヴィヴィアン・ノヴァックス編で1988年、オックスフォード大学出版局より刊行。「手紙すべてに目を通したわけでないから、私の手紙があなたにどれほどの意味をもつか分かりません。でも100年後、他の誰かが書いた風変わりな伝記として読めるとおもいますよ」

と、リアは186年に書き残しているが、まさにその言葉通りだ。でも彼が書いた手紙はただそれだけではなく、とりわけ絵画の「説明」として読むこともできる。

ヴィクトリア朝有数の風景画家が同時にナンセンス詩人であることは、われわれにキャロルが数学の教師であったことを思わせる。硬軟の世界を往還しながら激動の時代を生きぬいた二人の詩人には、心を発散させる媒体がどうしても必要であったのだろう。

種村さんの『ナンセンス詩人の肖像』が手元にあればいいのに…。また、高橋康成先生の『ナンセンス大全』も無性に読みたくなってくる。こういうとき外国は不便だ。

12回連続で女王陛下に絵画指導した画家は、細密描写にも長け、ロンドン動物園で模写した多くの作品をのこしている。現在、ハーバード大学図書館でマホガニーの箱に保存され至宝となっている。

21人兄弟のひとりとして生まれたリアは、蒲柳の質で、ぜんそくに苦しめられ、後半生は温暖なイタリアで生活をした。愛猫ホスとともに。ホスが亡くなった翌年、1888年、サンレモで永眠する。

次回は手紙からこの詩人の興味深い側面を点描してみよう。
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by oxford-N | 2008-09-15 20:10 | 古本
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前回、ブリティッシュ・ミュジアム界隈から古書店が姿を消したことをお伝えしたが、人文系の新刊書を格安で売っていた店もオックスハムに変わっていた。

「寝ころんで読んでもわかる」というふれ込みのデリダ解説本を買ったことがあった。もっとも、寝ころんでどころか、「正座して」読んでも理解できなかった。

新装になった同じ店で、マークマン・エリス『コーヒー・ハウスの文化誌』(2004)を5ポンドで求めた。何か買わないと、ここまで足を運んだ甲斐がないというもの。

一読、文化史かと思っていたが、やはり文化「誌」という方が似つかわしいと感じた。というのもコーヒーの話題について、年代記的に叙述はしているのだが、この主題についてたえず著者は思索を循環させているからだ。

だいたい18世紀の政治状況と絡めて、話は終始するのだが、本書は、スターバックスの誕生も詳述していて、蒙を開かれた。

わが街、摂津本山駅前にも、オックスフォードのハイ・ストリートにもスターバックスはある。本書にはこのように書かれている――

This is a common observation: as true in England as California, or in Bahrain, New Zealand and Japan.

カルフォルニアの小さな町から起り、ひとりのアメリカ人青年がイタリア旅行中に、エスプレッソを出す店に「劇場」の雰囲気を認め、それがひらめきとなり、既存のファーストフード店のやり方を学び、スターバックスは地球上どこにでもある店にまで発展したという一大叙事詩がつづられる。

コーヒーの世界伝播も面白い。
1511年、メッカ
1554年、コンスタンチノープル
1652年、ロンドン
1670年、ボストン
1671年、パリ
1683年、ヴェニス
1696年、ニューヨーク
1718年、ストックホルム

「トルコではコーヒーというものを飲んでいる。同じ名前の果実から作りだす。ススのようにまっ黒で、強い香りがするが、いい香りではない。お湯にとかせて飲むのだが、イギリスの居酒屋と似た『コーヒー・ハウス』で出している。心身の疲れをほぐすとともに消化を助けるという」

と書いたのは、誰あろう経験哲学の祖、フランシス・ベーコンである。1727年のこと。ベーコンはじっさいにコーヒーを飲んだのではないだろう。観察の対象として見ているからだ。それから1世紀もたたない1719年に今度はこのような記録が残っている――

「ロンドンの街にはコーヒー・ハウスがどこかしこにあり、すこぶる便利である。好きなだけそこに腰をおろし、新聞を読んだり暖をとったりできる」

それから300年、スターバックスにいきなり結びつきはしない。このようなコーヒー・ハウスは、19世紀になると姿を消してしまう。紅茶がイギリス国民に愛でられるようになっていた。
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それでも1950年代にエスプレッソ・コーヒー・バーによって、劇的なカンバックを果たす。店舗や機器の斬新なデザインが若者文化と結びついた結果である。今日では信じられないような熱い「喫茶店の時代」が到来したわけである。

スターバックスの次はどうなるのだろうか? そういえば、マクドナルドのコーヒーが美味しいと誰かがいっていた…。
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by oxford-N | 2008-09-12 17:45 | 古本
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同じ雑誌にヘイ・オン・ワイの古本村の探訪記事が載っている。日本でもこの村のことはいろいろなレポートで紹介されているので、別段ここでつけくわえることはないのだが、自称、「古本国の国王」であるブースのインタヴューが面白いのでここに紹介しておこう。

ヘイ・オン・ワイは、ある意味、ユートピアである。大量の本が一ヶ所にまとまって集められていて、そこから自由に好きな本を選べるという、古本好きの夢をかなえているからだ。

このインタヴューのなかで、「人里離れた村の裏通りにある古本屋で、コーヒーのいい香りが流れてきて、窓辺に猫が寝そべっているような…」と、あったが、だれもがこのような本屋で自分の求める本と出会いたいと夢想する。

ヘイ・オン・ワイの村のなかはこうした光景が見られるが、村をとりまく環境はきびしい。穏やかな昼下がりと北風ふきあれる夕暮れを、どのように折衷するか、現実の問題が控えている。

たしか、新しい本屋を模索する企画の、『新世紀書店』という本のなかに詳しい探訪記事があったと思うが、インターネット時代をどのように書店は生き延びるかという問いに、「街の本屋」の必要性をブースは熱く語っていた。

この緊急課題をもう少しここで補っておこう。ブース曰く、「ふつうの古書店は、しのぎを削るインターネット時代にはとうてい生きのびようがない」

「だからこそ1ポンド、2ポンドで好きな本を求めて探し歩く本好きのために、このような古本村が必要となってきたのだ。ふつうの本好きはわざわざ目録を読み、郵送料に2ポンド以上は払いたくないものだ」

「金になる本だけを注目し、ならない本には見向きもしないのが、経済の法則であるというのが現状だ。25ポンドの新刊をためらわず買える人もいれば、8ポンドの購入予算で頭を抱えている東ヨーロッパの図書館員もいるのだ」

…と熱弁は続くのだが、ほぼ半世紀もこの古本村が栄えてきた原因のひとつに、ツーリズムとうまくかみ合ったという点を忘れてはならないだろう。ここを拠点にハイキングをする人、ワイ川にカヌーを浮かべる人など、旅行客の注目を集めたことも功を奏している。

そして何よりも、高速時代の旅行が置き忘れた「歩く」という原点がここにはあった。本をさほど好きでない人がこの村にやってきて、くまなく村のなかを歩き回り、本好きになって帰っていく。神田の古書街から「歩くこと」をなくしてしまつたら、古本探しも無味乾燥な営為になり下がるだろう。

1960年代のヒッピーはやたらうろつき、歩き回った。そのヒッピー文化を継承して古本村をつくりだしたリチャード・ブースは、杖をつきながらも、歩くことをやめようとはしない。
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by oxford-N | 2008-09-10 18:43 | 古本