古本とビールの日々


by oxford-N

オックスフォード便り 37「おかわりは?」

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前回、「土木」の訳語について、翻訳の越しがたい壁を云々したが、毎日、それこそ日常茶飯事に、この壁を感じている。こんな次元で「壁」を感じるのに、ましてや生活の集大成である文化や個人の感情を表明した文学作品を「翻訳」できる可能性なんて果たしてあるのだろうかと考えてしまう。

フランス文学を専攻しているイギリス人と行きつけのパブでこの問題について話し合った。翻訳できるか否かについては具体例をあげ、否定的な見解を示したが、最大限の努力は訳者たるものしなくてはいけない、という点で意見の一致をみた。

英語に翻訳された文学作品の例をあげたなかで、『サロメ』を強く非難したのが印象に残った。どうしてあの英訳がどの本にも収められているか理解できない、とまで糾弾する。『サロメ』は最初、ワイルドがフランス語で書きおろし、それを同性愛の相手で作家生命を抹殺してしまうアルフレッド・ダグラス卿(ボジーと呼ばれていた)が英訳した。

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[ダグラスとワイルド(右)1892]

なぜフランス語で、という疑問が最初からわいてくる。ワイルドはサラ・ベルナールの絶大な賛美者であり、この劇を演じてもらいたかった。英語がしゃべれないベルナールのために書き下ろした作品であった。一個人のために書いたと非難されたワイルドは、即座に『タイムズ』紙に、自分は個人的感情で書くような「芸人」ではなく、芸術的使命に燃える「芸術家」であると強弁した。

表面的な事情はどうであれ、フランス語で書くことは作品の内実に深くかかわる問題であった。「言語の覇者」と豪語したワイルドであったが、ワイルドのフランス語は正確なのだが、どこかブッキシュで、文法書くささが抜けないようなフランス語でもあった。つまりフランス人作家なら絶対に書かないようなフランス語で書かれていた(この点を今、ジュネの訳にいそしんでいるSさんにきいてみたい)。

それなのになぜそこまでして、という疑問がさらにわいてくる。テクストの内実にといったが、ワイルドはさすがに一流の劇作家だけあって、テクストを織りなすにはじつに繊細であった。

この劇では色彩が命であるが、英訳ではほとんど単調な色に置き換えられてしまっている。文学作品において「反復」が意味を生成していくのに重要な要素となる。だが、英訳ではこれも単純化されてしまっている。しかし問題はもっと大きなところにある。

ワイルドがフランス語を採用した最大の理由は、フランス語では女性形が使用でき、女性の感情を音韻の面からも「ことばに」最大限に盛りこむことができるからであろう。サロメの台詞は大部分が女性形で書かれている。男性形と対立するように、当然もくろまれている。ところが、英語になると女性/男性の区別がなくなるから、訳者としては工夫をしなくてはならない。この重要な側面を無視したダグラス訳は描写ではなく、ただの説明でしかない。

邦訳では日夏、福田訳が名高いが、いずれもダグラス訳を底本にしている。では邦訳で、フランス語から訳された『サロメ』はないのかというと、すでに早くからある。ただ語学注釈書のかたちで世に現れたから注目をひかなかった。大正終わりか、昭和初期になされた仕事で、注釈者はのちに『星の王子さま』を初訳し、著名になった。

たしかに文化背景がちがう言語を移しかえるというのは、最初から無謀としか言いようがない。それでも「翻訳」しか手段がないとすると、できる限りの力を注入し、できる限り「忠実に」再現するしかないだろう。

ワイルドから「学生並みの理解力」と非難されたダグラスは自分の英訳に難癖をつけられたことに立腹し、「訳者に無断で改変が行われるようなら、訳者としても翻訳機械になり、適当にやるしかないだろう」と息巻いたが、最初から力量がなかったのである(後年出した多くの詩集が証明している)。

原作者ワイルドがダグラス訳に強く反対し、ちがう訳者を見出していたら、『サロメ』はもっと異なる作品に、つまりワイルドの意味・意図をふかく反映したテクストになっていたであろう。しかしワイルドは妥協し、『サロメ』を「英訳者アルフレッド・ダグラス卿に捧げる」と献辞にしるしてしまった。文学者ワイルドの限界もここにある。

空になっているビールグラスに気づき、パブのウェイターが“Another ?”と注文を促した。ちがう、ちがう、注文のときは「おかわりは?」ときくものだぞ、と内なる声がした。(N)
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by oxford-N | 2008-07-04 21:08 | オックスフォード