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古本とビールの日々


by oxford-N

オックスフォード便り 42 3人の友人

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みずからを「敵」と称して、無差別に砲火を浴びせたルイスであったが、3人の友人とは生涯を通じて交友をつづけた。ジョイス、パウンド、エリオットである。

パウンドから「衣類と靴の入った包み」を託されて、エリオットとルイスがジョイスをパリに訪ねたのは1920年夏のことであった。ジョイスは当時、それほど貧乏にあえいでいたのである。それでいて3人で食事をしたときにジョイスがここの勘定は自分がもつと頑固にも主張しつづけたというエピソードは愉快だ。

ルイスはジョイスのいい飲み友達であったが、両者はライバル意識を終生もちつづけていた。ルイスもジョイスも芸術家が生まれる過程を克明に自伝小説につづったのはけっして偶然ではない。

ルイスはジョイスを無条件に敬愛していた。とくに『ユリシーズ』を発表してからはジョイスを「現代散文の巨匠」とルイスにしては珍しいほど絶賛した。ジョイスの頭部ばかりを描きつづけたのはルイスのジョイスにたいするオマージュのあらわれであろう。

だがジョイスの方はルイスと同じようには考えていなかった。いつも批評され、それが一部は当たっているだけにわずらわしい存在であった。ジョイスはその腹いせに『フィネガンズ・ウエイク』のなかでルイスのことをその著作とひっかけてあてこすっている。

パウンドとの関係は微妙なものがある両者とも詩人・批評家として大いに尊敬はしていたが、政治的な立場が互いをゆがめた。多くの素描を描いたが、そのほとんどのパウンドは眠っているか、目を閉じているかしているポーズが多い。なかには目がない表情まであり驚かされる。こうした一連の「眼」の欠如はパウンドの現実把握の無さをあざわらっている。

エリオットを当代一の詩人と認めていたが、エリオットの方もある距離をとりつつ作家・画家としてのルイスを高く評価していた。ルイスが不遇になっても救いの手を差し伸べたのはエリオットだけであった。
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エリオットは同時代人をめったに誉めようとはしなかったが、ルイスの、文化人類学の手法を用いて、マキャベリズムを読みこんだシェクスピア論は高く評価し、全面的に肯定した。日本でルイスのシェクスピア批評を認めたのはただひとりだけであった。文化人類学者、山口昌男がこのシェクスピア論『ライオンとキツネ』を論評していなければ日本の批評はどんなにさびしいものになっていたであろうか。

こうして3枚の肖像画を並べて比較してみると、ルイスが本質的にはデッサンの人であることがわかる。立体派の幾何学的な「線」と未来派の「ダイナミズム」がルイスの雄勁さを生みだしている原動力である。

ただ不思議に感じるのはなぜ肖像画なのか、という問題である。肖像画が画家とモデルとの連帯感を醸し出すものであるとするならば、ここにはそうした関係は見いだせない。ルイスの力強い線が均衡を失い、閉塞状態に陥るような時があるのはこの「対話」の欠落・不足ゆえではないだろうか。

その意味でルイスは反=肖像画家である。
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(注)引用図版はいずれもPaul Edwards ed., Wyndham Lewis Portraits (National
Portrait Gallery, 2008)より転載したことをお断りしておきたい。(N)
by oxford-N | 2008-07-12 19:11 | 古本