古本とビールの日々


by oxford-N

オックスフォード便り 55  「ベケット 回想 ベケット (2)」

b0157593_20355274.jpg

後年、ベケットが英語をすてて、すべてフランス語で書くようになった事情の一端は、ジョイスにある。ジョイスの影から逃れるための方策とみると分かりやすいが、むしろ逆だと思いたい。ジョイスは言語のすべての絆を断ち切り、最後の作品では新しい言語の可能性を探ろうとした。

ベケットはフランス語で書くことで、ジョイスと同じ可能性を探ろうとしたのではあるまいか。「ジョイスは貪欲な作家である」というベケットのことばは重い。

ベケットの古くからの友人の回想が興味をひいた。友人が作家になる決意を表明したとき、「どんなものを書こうが、妥協をしてはいけない。金銭や名声を求めるなら、作家以外のほかの道をえらべ」とベケットは忠告をした。

ニューヨークの『パリ・レヴュ』が「仕事場の作者」(『海』にも何編かが訳され掲載された)という特集を組み、有名作家のインタヴュを載せていた。ベケットは当時、パリに住んでいたので、取材費はすべて雑誌社もちという夢のような話がその友人のところへ舞い込んできた。

取材はどうせだめだろうと思いながらも、豪華なホテル、ぜいたくな食事の誘惑に抗しきれず、友人はベケットに取材を申しこんだ。”Sorry, I have no views to inter.”という一言だけが返信にあった。

ベケットが終末病棟にはいっていた最後の出会いは痛々しい。友人といっしょに食事をとった後、ベケットは道の中央で急に立ち止まり、肩に手をおき、マラルメの詩を朗読しだした。マラルメが「白い苦悩」を訴えた詩である。創作の苦しみと言いかえてもよいか。

詩を朗読し終えるや、ベケットは「書くよりも、ものを書かずにいることは悪いことなのだよ」と言いのこし、病棟に通じる扉の後ろへと消えていった。友人はあふれる涙をコートの袖でぬぐうしかない。それは風の強い日であった。

空を見上げると美しい夕焼けが広がっていた。

昼から夜にかわるわずかな時間に、空は息もつけないような色彩を見せてくれる。瞬間、瞬間に表情をかえていく。昼が闇におおわれようとするのを抵抗しているのだろか。それとも光がすすんで、闇のなかに溶けこもうとしているのか。これは空がかなでる音楽だ。(N)
[PR]
by oxford-N | 2008-07-30 20:39 | 古本