古本とビールの日々


by oxford-N

オックスフォード便り 56  「パリの30年 (1)」

b0157593_539251.jpg

図書館横のブレイノウズ・カレッジへ行く用事があったので、久しぶりにカレッジ前の古書店「オックスハム」をのぞいてみた。ショーウインドウに『スチュデオ』の分冊が飾られている。年度ごとにまとめてあり、見やすいように配慮がなされている。でも1冊5ポンドとは少し高いのでは?

店内を物色すると思わぬものと出会った。田山花袋が『東京の30年』を書くときに参考にしたという、ドオデェの『パリの30年』である。新書の倍くらいの紙型で、凝った装丁だが、惜しむらくは背皮のため、上部が割れてしまっている。

とにかく読みやすい。もとのフランス語が流暢なのか、それとも訳がうまいのか、分からないが、リーダブルである。とても100年以上の歳月がたっているとは思えない訳文である。全然古びていない。花袋が読んだのと同じ本であろう。

でも10ポンド投資した甲斐があった。何度も花袋の顔がうかんだ。館林の家にも行ったことがあるので、よけいに親しみを感じる。結論から言おう。花袋がこの本から学んだものは、「追憶の仕方」である。この本を読み、加速度的に筆は進んだと想像できる。

たしかに細部が似ているところが多々あるが、そんな箇所をとりあげてもはじまるまい。「時の移ろい」をどのように描くか、この1点に花袋の注意は集中した。交通など外界の変化も時間の流れを客観的に伝えるので、花袋もそのことは忘れずに書きこんでいる。

でも大切なのは、花袋とおぼしき「語り手」が時間とともに変化していかなくてはいけない。「わたし」の意識が時の流れをつくらねばならない。さいわい明治のこのような回想ものにはあらかじめ決まったパターンがあった。

鄙びた田舎から、主人公が上京し、苦労して世に出る、というパターンである。花袋のこの回想記もこの枠組みを援用している。でも、この枠組みが現実をもつためには、細部の描写が不可欠になる。

『パリの30年』の方でも、主人公がパリにでてきて、寒さと空腹でまず都会の厳しい洗礼をうける。兄を頼ってパリにでてきた主人公と、「私は田舎の城下町から祖父に伴われて、寒い河船の苫の中に寝て、そして東京へと出て来た」と書く花袋とのあいだに差はない。
b0157593_5361834.jpg

文学を志したものの、なかなか受け容れてはもらえない。世の東西を問わず、文学的デヴューは難しい。そう簡単にはいかない。書きあぐねて、苦しむところもまったく新進作家の場合、同じである。情熱の空回りだ。

「何処に行っても、何をみても、私の体はすぐふるえた」というくらい敏感な感受性があるが、感受性だけで文章が書けるものでもない。創作の苦しみはここからはじまる。花袋は、散々手を入れられ、初めての作品をものにする。しかも作者名が誤植ででるという屈辱にまみれて。

サロン(フロベールのサロンも登場する)、先輩作家との出会いなど多くの共通項をもちながらも、『東京の30年』と『パリの30年』が決定的にちがう点は、作家の「死」である。前者は、若死にしていく文学者がたえない。

眉山、独歩、…。明治の作家は死と隣り合わせになっていた。これは風土のちがいであろうか、現実とはいえ、どうしても暗くなってしまう。でも、文学者が鋭敏な時代のアンテナであったとするならば、「死」の事情は異なってくる。

パリの文壇は社交が主になっているからか、陰湿な面も多々あるにせよ、軽妙で明るい。主人公が苦しむことは苦しんだりするのだが、どこか前向きである。この差異は、国民性に起因するよりも、建国途上の国と、微動だにしない帝国のちがいからくるものなのかもしれない。(N)#
[PR]
by oxford-N | 2008-07-31 05:46 | 古本