古本とビールの日々


by oxford-N

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じつに不可思議なことが起り、今でも合点がいかない。オークション奇談の次第を順序だてて話そう。

古本好きの友達が退職を機に、もうめんどくさい研究や調査からは足を洗い、第二の人生はゆっくりと好きな小説を読んで過ごしたいとつぶやく。今まで英文学史で教えてきたりしたが、こちらが読んでないものを、「無い袖をふる」のはつらかった、としみじみ語った。

漱石も同じことを言っていますよ、と慰めたが、たしかに読んでもいないものを読んだふりをするのは欺瞞であると言われても仕方がない。(でも日本の教師はだれも英文学史を教えることができなくなるだろう)。贖罪のつもりか、当方の渡英を知り、ウォルター・スコットの大部な小説集を買ってきてくれないかと、依頼してきた。

もう老眼だから活字が大きくて、余白がたっぷりあるのがいい、との注文。古書店でこれはという版が見つかれば、送ってくれと頼まれ、送料と代金込みの金額を預かった。そのうちスコットならいつでも出てくるだろうと悠長に構えていた。

このような一代を代表するような作家の本は熟読されているため、なかなか美本が見つからない。(直木三十五全集の美本がないようなものか)。それが今回のオークションで美本といっていい状態の本が現れた。大版で、挿絵もふんだんに入っている。条件に合致する。よし、これは落とすしかない。こぶしをにぎりしめた。

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後半開始早々に、当該の本が出現した。12冊揃えである。そんなに珍本ではないが、ここまでの美本はなかなかない。4番目に登場し、書名と作者名が呼ばれると、思わず参観日の小学生のように、気の迷いもなく手がさっと挙がっていた。ふつう自分の値を悟られまいとして、ポーカーフェイスで通すものだ。

最低値の10ポンドを言ったきり、オークショナーは場内を見回している。沈黙が場内をおおう。「この田舎者め」「そこまでして欲しいのか」「礼儀をわきまえろ」などなどの視線が刺す。凍りついた場内はまだ氷解しない。すると、オークショナーはハンマーをポンとたたき、「10ポンド!」と宣告し、次の出品へと移っていった。

オークションは進んでいるのに、集中どころか、まわりの声すら耳に届かない。呆然としてしまった。入札した本人が一番驚いている。預かってきた代金の30分の1にも満たない。キツネにつままれたとはこのことだ。

帰宅して持ち帰った12冊を丹念にしらべてみた。何も欠陥はない。城のような容量に威圧されながらも、まだ信じられない。あまりにも安すぎても嫌なものだ。日本時間を見計らって、電話を入れ、事の次第を報告した。頭から信じようとはしない。10ポンドの端数が予算額からはみだしたと思っている。「残り全額をもらっておくぞ」と脅かすと、ようやく合点がいき、「帰国したら寿司をおごるから、つりは使うなよ」と、急にケチなことを言いだした。

残金をイギリスまでの旅費にして、そちらへ行くと言いださないか心配した。あのうるさい奴がきて、連日、古本屋通いに巻き込まれてはかなわない。友人にとっては思わぬ「掘り出し物」になったが、うれしいというより複雑な気持ちだった。

W.アーヴィングの『ウォルター・スコット邸訪問記』(岩波文庫)まで訳されているが、肝心の小説が明治からよく知られているというのに、翻訳されている作品が少ない。これだけ安い値段で入手できたのは神様が、未訳のものを訳せ、という思し召しだぞ、と会った折に、言ってやろう。

ここが古本屋で買うのと、オークションで求めるのとの違いであろうか。せり上がり高価な買い物になるときもあるが、逆に格安になるときもある。どっちに転ぶか分からない、この不安定さが人生とよく似ている。それにしても信じられない…。(N)
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by oxford-N | 2008-06-30 21:54 | 古本
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前回は怪気炎をあげすぎたようだ(反省)。日本では東京の古書会館や京都の古本即売会で、年に数度しか一般人が参加できるオークションはない。だからオークションをつい特殊な目で見てしまうのだがこちらではそんなことは一切ない。現に道路工事の人が作業着のままで会場に現れ、段ボールいっぱいの小説を競り落としていた。それくらい街に溶けこんでいる。古本屋で古書を求めるのと何も変わらない。

今回入手した大本命を報告しよう。著者は博物学者のフリップ・ヘンリ・ゴス。ヴィクトリア朝の代表的な自然誌作家である。書名は『テンビィ』(1856)。テンビィはウェールズ南部の地名で、1724年、この地を旅したダニエル・デフォは「もっとも快適な港町」とたたえた。また等号(=)を考案した数学者ロバート・レコードを生んだ町でもある。ゴスはこの海岸の村を拠点に、磯採集の一大ブームを女性の間にまきおこした先導者のひとりであった。

ではなぜ当代一の博物学者がこんな寒村でくすぶっていなければいけなかったのか。それは息子エドモンドが描いた自伝小説『父と子』(1907)に詳しいが、その一部分を紹介しよう――「つまり、1857年という、あの科学史上重要な年で、父の頭脳を駆けめぐったふたつの潮流とは、どちらも興味深く説得力をそなえたものではあったが、決して両立することのないものだった」、1857年は言うまでもなく『種の起源』が発表された年である。

「真実が異なるふたつの形態をとり、そのいずれもがまったく議論の余地もない正しいもので、それでいてお互い相反する、というこのパラドックスには、たしかになんとも言えない苦悩が存在している」、ここで言及されている「ふたつの潮流」とは聖書の記述を最優先する創造説と、ダーウィンの進化論をさす。

ゴスは聖書こそすべてを定めている「正しい」テクストであると信じて疑わなかった。「では人間はどこから生まれたのか」という大問題を解かなくてはならない。『父と子』はこうつづく――

「自然界にふたつの論があって、どちらもともに真であり、それにもかかわらず相手が真であることは認めようとしない。このことが明らかになってくると父の心は激しい動揺をきたした。実のところこれはパラドックスでもなんでもなく、単に誤信を犯しているだけだというのに……。この事実さえ理解できれば何も問題はなかったものを、父は迷信のつまった聖書という濁った流れでもって、精巧きわまりなく合理性にしたがって流れる清流を凌駕しようとしたのだ」、痛ましいかぎりである。

結果、ゴスはアダムには臍がなかった、という奇説をぶちあげ、自説を擁護しようとした。アダムは神が創りあげた最初の人間で、誰からも生まれたわけではない、という。だから臍がないというわけである。ダーウィンのいう猿から進化してきて、という説と真っ向からちがうわけであった。晩年の渋澤龍彦はゴスの説をいとおしげに紹介していた。彼のことだから自分のお臍を触りながら考えていたかもしれない。

『父と子』は、「科学的勇気を」もたなかった父を断罪する――「真理に尽力したくて一歩踏み出してみたものの、そこで苦悩をおぼえて引きさがり、誤謬に仕えることに甘んじたのである」、この最後の言葉こそ、ゴスをロンドンから追放させた原因であった。『アダムの臍の緒』という奇書のため、積み上げてきた信用すべてを失うことになってしまった。

進化論の衝撃を、宗教と科学の断絶のかたちで、これほどみごとに描いた例はない。しかし運命は皮肉なもので、この海岸の村にひきこもったことが逆に博物学者として人気を博するようになる。水槽を考案して、家庭で海洋生物を観察するブームを起こしたのもこのゴスであった。

図版2
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ゴスの精緻さには観察する能力のほかにもうひとつ、すばらしい技能があった。観察したものを精確に写す才能である。図版2の細密画に注目してほしい。ウニの幼年期の骨格(!)である。ゴスにとってこの美しさは「神のみわざ」と映るのであった。でもこの細部をみごとに再現する才能が窮地に追い詰めたのもたしかである。

図版3
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ゴスには細部にこだわる以上に想像し、その世界を写しとる才能もあった。図版3はイソギンチャクが磯部で群生している様をえがいているが、まるで宇宙人の来襲のようではないか。ジュール・ヴェルヌの冒険本から抜け出したようだ。

版元は博物学書を一手に出していた、ジョン・ヴァン・ヴースト。巻末の出版案内をみると、ゴスにはほかに、『博物学者のデボンシャ海岸散策』もある。次のオークションはこれが目標になるか。観察力のすぐれた人間がもっとも身近なもの、つまり自分を「観察」できなかった人間らしいドラマゆえ、この博物学者は今も魅力を失っていない。

じつは昨春の勧業館の即売会で本書はショーケースに飾られていた。価格はたしか3万円以上の値がつけられていた。結果的には買わなくてよかったのか、どうか分からないが、今回は4人で競り合い、予想価格70ポンドから90ポンドのところを、80ポンドで落とした。これが高いか安いかは本書をどのように読むかにかかっているだろう。(N)
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by oxford-N | 2008-06-29 21:48 | 古本
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マラムズで2度目のオークションがある。といっても庭園の備品、絵画、彫刻、骨董がおもで、古書は添えものの感がある。ロンドンの古書業者などは来ていないようだ。朝9時にはいりじっくり下見をする。もうかなりの人が集まっている。書籍のほうは玉石混交といっていい。これは面白くなりそうだ。

11時定刻通りにオークション開始。雑念を捨て、オークショナーの声に集中しよう。いつもと同じように流れるがごとき声に乗せられてどんどん進んでいく。絵画の方ではピクチャレスク・ツアーを流行させたギルピンの水彩画が出ている。これは珍品だ。予想値が70から90ポンドである。150ポンドあたりで落ちるだろうと踏む。甘かった。420ポンドで落札。まずは1敗。半額以下の入札価格では話にならない。

しかしみんなよく知っている。ピラネージの版画も数点でている。予想価格も1000ポンドは下らないから見学といこう。平均800ポンド前後で落ちた。状態もいいので家賃を払う前でなければ手をあげているのだが…。我慢、我慢、このエネルギーを古書のときまで温存しよう。

汚いさびた錫でできた自動車のオモチャがなんと330ポンド!これはお宝の世界だ。17世紀の鎧(よろい)が1100ポンド。これは納得。安いくらいだ。では買うかと問われたら置き場所に困ると答えざるをえないような品だが。

ここで場内に爆笑が起きた。studies「…研究」と言わなくてはいけない書名を、なんと、suicides「自殺」と間違えてしまったからだ。オークション会場では冷笑、失笑、苦笑があっても爆笑はめずらしい。

そうこうしているうちに、古書籍のセクションにきた。予想価格のはぼ倍を上回る落札値で推移していく。ジョンソン博士の1818年版『英語辞典』(総皮、5巻)は150ポンド。『バイロン挿絵詩集』(3巻)は160ポンド。カムデンの『ブリタニカ』(3巻、1789)、800ポンド…。

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つづいて『月刊 ビートルズ』(41冊)はフアン雑誌で90ポンド。『モクソン版 テニソン全集』(7巻)と大版の『ロバート・バーンズ全集』(6巻)、この両全集合わせて13巻で20ポンド。美本だが部数が出ているからであろうか。文学部門はもうひとつのようだ。

いよいよ本命の旅行記、歴史書のセクションに移る。岩波文庫でおなじみのオールコック『大君の都』(2巻、初版)は予想価格が100から150ポンド。別に今すぐという本ではないが、目が覚めるような美本で日焼けひとつない。300ポンドで競り値が止まるかと思いきや、急にテンポが速くなり、あっという間に、820ポンドまで上がってしまった。美本はやはり価格があってないようなものだ。ふつうなら200ポンドくらいの本なのに。

リチャード・ドイルの『妖精の国』の美本が出品されていた。ところが予想値が40ポンド!これはどうしたわけだろう。ヴィクトリア朝の挿絵本でもっとも美しいと謳われ、これくらいの状態なら1500ポンドから2000ポンドは下らないというのに。

手に取ってみると無残にも2ヶ所、ハサミで絵が切り取られている。おそらく子供が切り絵のつもりで切りとってしまったのだろう。「君のおやつの何年分だと思う!?」「自転車何台分だか考えてみろ!」と、親ならどなり飛ばしたいところだ。元所有者が気づいていたら、卒倒しただろう。

『湖水地方ガイドブック』をはじめ、面白い地誌のコレクション、22点で400ポンド。これまた奪われてしまった。ウィンパーの『アルプス登攀記』が混じっている旅行記のセット。これも美本揃いで、11点で800ポンド。ギリーの『ピエモント紀行』(1827)がどうやら要であったようだ。欲しいのは1冊だけなのに、あとの不要な10冊がついてくというのは、どうも食指が動かない。

でも合計452点の入札を真剣に見守ってきて、結論らしきものがやっと見えてきた。中途半端な気持ちでは絶対に落ちないということ。「もし予算が許すなら」、「もう少し安ければ」、という中途半端な気持ちは捨てなくてはいけない。「もしや」とか「運がよければ」なんてありえない。今日のオークションは教訓になった。星一徹になろう(古いか)。

本当に欲しい、鹿島茂さんではないが、家屋敷を抵当にしても、「子供より古書が大事だ」という心構えがないとすでに負けである。古書オークションに挑むにあたって、今日はこの一本にすべてをかける、ほかは見向きもしない禁欲精神と、明日からは水だけで暮らしていくもやむなし、という金銭哲学がすべてである。一冊にだけすべてをかけ、玉砕あるのみ(メラメラと後ろで炎が燃えあがる)。オークション道をきわめるぞ!(N)
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by oxford-N | 2008-06-28 21:51 | 古本
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仕事が行き詰った。どうしょうもない。じっとしていても焦燥感が募るだけ。気分一転。知らない道をひたすら走ろう。くよくよしていても仕方がない。草原に寝転がって、青空を見つめていれば、自分の卑小さを思い知らされ、打開策も生まれようというもの。

自転車で緑の海のなかをひたすら走る。イチゴ狩りの看板が目に入った。イチゴ狩りか、大昔に行ったがどうだろう。2キロくらい走ると農園があり、おじいさんと孫娘が売店で、とれたての野菜を売っている。前の畑で採れたイチゴからつくるアイスクリームが名物で美味しそう。皆、かがんでイチゴをもぎっている。

イチゴ農園をあとにして走ると牛の群れに遭遇。ここで寝そべっていると牛に顔をなめられかねないから、離れたところで牛の字ではなく、大の字に。気持ちがいい。さっきのイチゴにこの牛のミルクをかけたらウマイだろうな…。この地球に生まれてきて、丑年なのに、どうして牛にならなかったのだろうと、愚にもつかないことばかりが浮かんでは消えていく…。

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オゾンを堪能したら、何やら元気がでてきた。よし、来た道を一気に帰ろう。幹線道路にでると、一台のワゴンが本を売っている。新刊割引だ。手が出そうものもなさそうだが、サルトルとボォーヴォワールの伝記(Tête-à-Tête: The Lives and Loves of Simone de Beauvoir & Jean-Paul Sartre, 2006)がおもしろうそうだ。安い、10分の1の値段。ポテトチップスの値段と同じとは。帰宅後、ベッドに寝転がり、読みはじめてみるとやめられない。本の裏の宣伝に、「ページをめくる親指が止まらない」と書かれていたが、本当だ。

1963年に二人そろって来日した時の模様が詳しく描かれている。日本はもっとも愛読者のいる国である、とある。前年には『第二の性』が訳されていた。人文書院がサルトルの版権を独占したことにたいして、第一書房の社主長谷川が引退しているのに、「あんな田舎の本屋に版権を取られるとは」と憤ったいきさつなども面白く浮かんできた。

恋多きふたりの生き方が微にいり書かれているが、サガンの『悲しみよ、こんにちは』の訳者A.Tとの恋について、「行く国の先々で女性をつくるのだから…」と、ボーヴォワールが嫌み半分でサルトルを難詰する場面もでてくるが、彼女の方も負けていない。シカゴの詩人ネルソン・アルグレンとの恋はまるでロマンス小説を地でいくような展開で、情熱の人そのものである。ふたりの恋文を収録した書簡集が出たというのだからこれまた驚きだ。

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共通の趣味だったボクシングを介して、アルグレンは寺山修二と仲がよく、彼を頼ってボクシング見物に東京にやってきたことがある。肩車を寺山がしている写真を覚えている。そんな情熱的な男性には見えなかったが、ボーヴォワールを虜にしてしまうとはなかなかやるものだ。アルグレンが書いた小説の翻訳もたしか出ていたはず。

ノーベル文学賞を断るサルトルの生き方も筋が通っていて潔いが、晩年になって二人よりそっている写真を見れば、治まるところに治まった感がして、こちらもほっとさせられる。コーヒーを飲んでいるのだが、縁側で番茶をすすっている老夫婦にみえる。

『いきの構造』の哲学者、九鬼周造がフランス語の家庭教師を募ったところやってきたのが、学生のサルトルであった話はでてこない。幕末から明治初年にかけてのボストンと日本の文化交流を描いた『グレイト・ウェイヴズ』(小学館)は、九鬼の実父は岡倉天心で、サルトル、ハイデッガーへと目に見えぬ糸がもつれあっていき、「時と永遠」というテーマで結ばれていたことを明らかにしていた。

一時期あれほど熱くなっていた実存哲学はもうはやらないのだろうか。人文書院から白い表紙で出ていたサルトルの訳書は均一台にさらされ黄ばんでいるが、もう一度、復活しないのだろうか。フェミニズム流行の昨近、「第二の性」は古いのだろうか。熱しやすく冷めやすいのも困ったものだが、等身大の人間を描いた、この伝記を翻訳して、ふたりのことを考える糸口にすればどうだろうか。(N)
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by oxford-N | 2008-06-27 22:00 | 古本
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日本からMさんご夫妻が訪ねてくださった。ご夫婦とも定年退職まで勤めて、今は一年に一度、大好きな英国で、20日間ほど予定も決めずに、気の向くまま、風の吹くままの旅を楽しんでおられる。羨ましいほど自由あふれるご夫妻である。オックスフォードのつぎはコンウォールの「どこか」へ行くご予定とか。

ご主人は大の鉄道好き。世にいう「鉄男さん」である。ブラックウエル書店の古書コーナーで多くの鉄道の本が出ていたから、ご案内したのだが、「妻の機嫌が悪くなるから」と、もうひとつ乗り気ではない。奥様に「鉄道は好きになれませんか?」と水を向けると、「だって、ロンドン地下鉄の駅をひとつひとつ降りては、線路と線路の幅を見比べたりするのですよ」と拒否反応を示されてしまった。たしかに女性ならばここまで興味をもてと言われれば、「鉄子さん」になるのは難しいかもしれないとあっさり納得した。

「鉄男さん」はヴイクトリア朝が大好きときている。鉄道が登場した時代であるから当然だろう。英国は再販制のしばりがゆるくなり、新刊でも良書がよく特価で売られている。そこでリザ・ピカードの『ヴィクトリア朝のロンドン』をお勧めした。三分の一の値段で特売のテーブルに積み上げられているが、よく売れている。邦訳は今のところ、残念ながらピカードのものは4冊出ているうちの1冊(『18世紀ロンドンの日常生活』)しかない。

歴史を、その時代の日々を、肌で感じさせようと、きわめて具体的な叙述が重ねられていく。抽象論は皆無である。「楽しい歴史書」である。そのためいろいろ工夫がなされているが、同時代人に直接語らせる手法は有効的である。

たとえば、鉄道の章をのぞいてみると、登場した汽車がそれまでの馬車の速度とは比べものにならないくらい速いので、ヴィクトリア女王が「気分が悪くなるのでもう少しゆっくり走れないものか」と、まだ人間が新しい速度に順応できない様子を、「具体的に」教えてくれる。

どの駅がいつ、誰の手でどのように建造されたかというような、交通史の基本とともに、読者はヴィクトリア時代の乗客になっている。でも汽車に乗るまえに、当時、切符はどうしていたのだろうかと疑問が芽生えてくる。そこでひとりの女性の思い出話が披露される。

叔母と車中の人になっているとき、車掌が検札にやってきた。子供ということもあり叔母は切符を一人分しか買っていなかった。二人分要求されるのを避けるため、「そこで私は叔母のクリノリンの上に腰かけさせられた」という。クリノリンのごわごわ感が読者にも「ごわごわと」伝わってくる。汽車が揺れ、いっそうごわごわ感が肌に伝わり、読者に「肌で感じるような」真実味をあたえてくれる。

事実を重ねて、ある瞬間が、その時代のある日のある時間から顔をあらわす。歴史的真実などと大げさなことは言うまい。日常の一片なのだから。でも確実に過ぎ去った時がよみがえってきた。すばらしい瞬間である。

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「鉄子さん」にならなかった奥様が仔ゾウを主人公にした絵本を古書売り場で求められた。あの絵本をコンウォールの碧い海を見ながらひろげられているのかしらと思うと、もう夏がすぐやってくるような気がしてきた。(N)
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by oxford-N | 2008-06-26 21:57 | 古本
図版1
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コナン・ドイルのもっとも入手困難な『ビートンズ・マガジン』が155,000ポンドで競り落とされてから、掘り出したオックスハムはもう庶民の味方ではないと勝手に決めこみ、しばらく足を向けなかった。どうせプロの業者が高い値付けをして、われわれの出る幕はない、と。ところが急に時間が空いたため、所在なさもあり、久しぶりに店内に入ってみた。

すると美術書の棚にドロシー・ジョージの『ホガースからクルックシャンクまで』(1967年)があった。どうせ高い値が、と思い、表紙の鉛筆でつけられた値をみると「10ポンド!」、これは…。ハイ・ストリートのちがう店では、もっと状態が悪いというのに100ポンドであった。これは買うしかない。やはりオックスハムは庶民の味方だった。

風刺画はイギリスのメディア媒体として重要なものである。今日、日本が世界に誇る、〈マンガ・漫画・Manga〉のルーツもこのカリカチュアという風刺画にたどりつく。富山太佳夫氏の『大英帝国は笑う』(岩波新書)はこの風刺画をふんだんいつかった快著である。カリカチュアは政治の武器でもあり、庶民の声なき声を代弁してくれる力強いメディアでもあった。その力は現在まで持続していて、洋の東西を問わず、いまも新聞の社会欄の片隅にかならず政治風刺の漫画がそえられている。

この著者でないと書けないという本があるものだ。著者のメアリ・ドロシー・ジョージ(Mary Dorothy George)はそうした作者である。はじめて女性を大学に受け入れたケンブリッジ大学のガートン学寮に進学するが、じつはこれは本人自身の選択ではなかった。父親が風刺雑誌『パンチ』の偉大な女性を描いた風刺画に感激し、この女性と娘も同じ道を歩ませたい、と強く決意し、このカレッジに進学させたというわけである。風刺画研究の碩学が風刺画から発想をうけ、その人生行路が決定したというのも愉快ではないか。

まだ偉大な歴史研究家の誕生には至らない。人生は波乱万場というが、心血をそそいで完成させた博士論文『スチュアート期のイギリス経済』の原稿が人生の最高に幸せの絶頂期である新婚旅行へ行っている間に紛失してしまったのである。必死の思いで復元しようとしたが間に合わず、学位は取得できなかった。ふつうならここでくされて失望してしまい、家庭に入り、学問の世界にはもどろうとはしないはずである。

図版2
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ところがこの意志の塊のような女性はめげなかった。心機一転、これまでとはちがう分野をえらび再出発を誓ったのである。18世紀社会経済史を専攻し、『18世紀ロンドンの生活』を1825年に著す。これは今日でも歴史研究の基本図書になるくらいの名著で、この刊行が大英博物館への招聘をうながし、前任者が手がけていた1320年から1770年以後の風刺画目録の作成を依頼され、「風刺画の黄金時代」いといっていい1771年から1832年での風刺画に精緻な解説をつけることになる。これは歴史への洞察なくしてとうていできない仕事であった。

ドロシー・ジョージが作成した目録(Catalogue of Political and Personal Satires Pesented in the Department of Prints and Drawings)には13000点の風刺画が収められ、解説がほどこされている。ついに1954年に最終巻が出て、タイムズ紙(11月27日号)は「学問的持久力」を称えたのであった。さらに1959年には『イギリス政治風刺画』(2巻)が刊行され、これも名著の名をほしいままにしている。このような稀代の碩学が齢90にして著したのがこの『ホガースからクルックシャンクまで』なのである。極めたものでないと概説書は書けないといわれるが、その言葉の意味通りのこれは本である。難聴に苦しめながら、ついに1971年9月13日に永眠。

ページをめくると、幼いころからひとつの道をまい進してきた女性の声が聞こえてくる。人間やればここまでできるのかという、すばらしい指標である。伊丹市立美術館にドロシーが作成した目録が架蔵されているので、ぜひ参照して、美術館所蔵の風刺画の数々を堪能してほしい。そんな名著なのに値段にこだわった自分が情けなく、すこぶるかなしい。

(注)図版1はロランドソン(1756-1827)が描いた社交場。図版2の作者はウィリアム・ヒース(1795?-1840)で、名将ウエリントンも会員であった高級クラブを経営していたクロックフォードがすべての富をわがものにする様子を、牡蠣をたいらげる図にして諷刺している。右下のグロット(洞窟)は(ニックフォード、すなわちクロックフォードが)食べ捨てた牡蠣の殻を集めて当時、子供たちが作ったもの。スコットランドでとれる牡蠣は昔も今もイギリス人憧れの高級食材。

(N)
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by oxford-N | 2008-06-25 22:05 | 古本
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宝の5ペンス・段ボール箱からはまだまだ買い込んだのだが、店の人から本屋をするつもりかと笑われたので、このあたりで切りあげて次の話題に移りたい。それでもこの冊子だけは取りあげておきたい気持ちがある。

アテネ・オリンピック開催の数ヵ月前か、テレビを見ていたら女優のメリナ・メルクーリが画面にあらわれ、メッセージを発し出した。「美貌衰えず」とやにさがっていたら、たちまちそんな妄想は吹っ飛んでしまった。イギリスがパルテノン神殿からもち去った―イギリスは正規に購入した、と主張している―多くの大理石彫刻を返還せよ、と訴えている。

イギリスではギリシャからもち帰ったエルギン卿の名にちなんで、エルギン・マーブルとよばれ、ギリシャでは所有の主体を明らかにすべくパルテノン・マーブルと呼称されている。歴史的事実はトルコに占領されていた当時の政府からエルギン卿が購入し、苦心の末、本国イギリスまで持ちかえり、その後、買い取られて大英博物館に収められている。

放置されていたパルテノン神殿のレリーフから無理やりはがしたような大理石片もじじつ多い。一般人に依頼したため、かなり粗雑に切り取られ、処理された。「でも、あの状態で放置いていたらどうなっていたであろうか、われわれが保存に努めなければ」とイギリス側は主張する。むしろ感謝されてもいいくらいだと言わんばかりだが、この意見は今も根強くある。でも最近のイギリスでの世論調査では6割近くが返還に賛成し、イギリスでの保管に賛成するひとは1割にも満たない。

ギリシャ政府は長期貸し出しという、じつに譲歩した案まで出しているが、イギリス側はまったく聞く耳をもたない。いくつかの論拠を列挙しているが、「大英博物館に保存している」というところに、イギリス側の大きな誇りがあるようだ。つまりこの博物館はイギリスの英知を結集したものである、という考えが前面にでてくる。

ヴィクトリア時代から返還要求はあった。でも一考だにしなかった。世界に冠たる帝国になった今、叡智の象徴である彫刻は大英帝国の帝都ロンドンに置くのがふさわしい、と。イギリスにしてみればこれで名実がそなわったことになる。

しかしこれは苦しい。古典の素養がギリシャ・ラテンにあるとする伝統からすれば、本家を認定してしまうことになるからだ。否そうではなく、それは「古代ギリシャ」であって今の「ギリシャ」ではないと強弁するだろうか。

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ここにかかげたギリシャ政府が発行したパンフレットは返還要求を実現させるため、よくできている。大英博物館におかれている大理石片、アテネに残っている大理石片、両者が合一させた図の順で、ハトロン紙をはさんで復元できるようになっている。各ページに返還が正当であることを訴える、「略奪された」同時代の声も収録している。詩人バイロンなどがその代表格である。

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両国で激しい論議が巻き起こったが、「こんな要求に応じていたら、世界の美術館は空になるだろう」というイギリス側の対応は正直すぎる反応である。ユネスコが認定する「世界遺産」のロゴはパルテノン神殿である、よって国境を越え、パルテノン・マーブルは世界遺産である。だから元にあった場所にもどしなさい、とギリシャも主張をくりかえす。

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5ペンスの箱のなかには思いもかけないものが充満していた。ロンドンはブルームズベリ、大英博物館に見学にやっきていた日本人の若者が「ここが入場料タダなのは盗んだものばかりだから」とまことしやかに嘯いていたが、「若者よ、ことはそんなに単純じゃないぞ」と、今は亡き寅さんなら注意するだろう。(N)
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by oxford-N | 2008-06-23 22:11 | 古本
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3冊目にえらんだ美術書はアンドレ・ロートの『絵画論』である。1920年代初期から30年代末にかけて書かれた画家論が主体になっている。具体的にいえば、1920年のセザンヌ論から1939年の「絵画―表現の芸術」まで、画家論だけではなく多様なテーマが論じられている。キュービズムが中心だが、「絵画の詩」のように美意識をめぐるエッセイから、「ドガとヴァレリー」にみられる美術評論の本質を考える論考までじつに幅広く論評している。

書肆ルミエールから1946年12月に1500部限定で出版された。本書はその407番本。装丁は著者自装である。ロートは家具職人の門弟から画家へと変身した人であった。1907年にサロンに出品し、1908年に個展を開き、ジッド、リヴィエール、フルニエなどから称賛され、1922年に画塾をひらき、分析と技法を主に教えた。本書はこのころの評論活動を主軸として書かれたものである。

美術評論と絵画作品を比較するなどとうてい無理な話で、意味をなさないのであるが、ロートはどちらかといえば、絵筆よりもペンの方がまさったような画家であった。分析力が鋭ければ鋭いほど、その分、絵画の表現力が薄まっていくようである。

画塾アカデミ・モンパルナスを開いていたこともあり、日本の画家たちの多くがその門をたたいた。若き画家たちを惹きつけた魅力は、その解説の巧みさにあったのであろう。みずからも画家であるため、絵画の創造過程を具体的に分析し説明するのがじつに巧みであった。

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たとえばジョルジュ・ブラックのキュービズムを次のように説明する――「色彩によって絵画に構成とリズムを与えようとするのは、要するに比率の問題に還元できよう。試みに美術館へ出かけてみて、エジプト時代から現代にいたるまでの、絵画に描かれた「耳」だけを注目してみれば、どの時代の画家も信じられないくらいの想像力を駆使して、耳という、描きがたい、身体の一要素を描こうとしているのがわかるであろう」、と前振りをしてブラックの本質へと進んでいく。

「ブラックは現代作家のなかで誰よりもこの比率の問題と取り組んだ。色調を変化させながら、ヴァリエーションをくわえ、造形的な暗喩というものに変化させ、みごとに統一していく。その技たるや、もっとも高尚な意味での装飾家といえるが、繊細に、乱れずにさまざまな色彩をあやつる音楽家ともいえよう」と、ブラックの色彩を用いた造形力を説明している。

ブラックの後ろに控えているのはいうまでもなく、セザンヌであると、ロートは見る。「セザンヌは印象派を造形的にとらえて、キュービズムを生みだした。この造型性を深化させていったセザンヌの方法は大きな可能性を拓くものであった」、というように現代絵画の始祖としてセザンヌをとらえていた。この信条をもとにロートは、古典作品を立体派のタッチで描いてみせた作品を数多く残している。だがここでも「説明が過剰な」画家の不幸がみられる。

理論家ロートの衣鉢を継いだのは写真家カルチェ=ブレソンであろう。「写真のすべてはアンドレ・ロートから学んだ」という彼自身の言葉は、「すべては相対化していて、たえず背後のフォルムと構成を忘れてならない」という師の教えに開眼したものであった。1927年にその門をくぐっている。古典とモダニズムの関連をいつも考えていた批評家はこのような弟子を見出し、さぞかし本望であったであろう。(N)
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by oxford-N | 2008-06-22 22:13 | 古本
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2冊目は『セザンヌ デッサン』(1957年)。ローザンヌの書肆メルモから出ている。セザンヌのデッサンが57作品、「ポール・セザンヌ論」「セザンヌのデッサン」の2作品論がついている。後者はセザンヌ研究の第一人者、アンドリアン・シャピウスの論考。同時代人の画商ヴォラールから説きおこし、セザンヌ自身の書簡を引用しつつ、美術批評家ヴェンチュリ、リウォード、フライ、クラークなどのセザンヌ論を紹介いている。

シャピウスはすでに1938年に論考『ポール・セザンヌのデッサン』を世に問うている。そしてセザンヌの全作品を同定した、『セザンヌ作品目録』(2巻、1973年)の編著者でもある。この労作なくしてセザンヌは語れないほど、作品の真贋が確定されている。セザンヌのように残された作品が多い画家にはぜひとも必要な作業である。だから薄い本書にも、本の書誌、参考文献にあたる、絵画目録がすべてのデッサンにわたり詳しくつけられている。

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セザンヌのデッサンを一瞥して気づくのは、画家はたえず自分の身辺を観察していることである。恐ろしいくらいにまで。今日、セザンヌには18冊のスケッチ帳が残されているが、一貫したテーマを追ったものは少なく、たえず身辺の記録になっていて、同時に習作の連続になっている。静物はいうに及ばず、妻や生まれた長男ポールを対象に何度も何度も繰り返し描いている。描かれた習作のなかでも後頭部をいつも描き、追究しているのはなぜだろうか?(わからないので蘊蓄先生に教えてもらいたいのですが…)

だがスケッチとデッサンは明らかにちがう。でも共通するものがある。それはフォームの追究である。このフォルムにかけるセザンヌの情熱には鬼気迫るものがあり、何人も寄せつけない厳しさがる。何時間もモデルをつとめさせられた妻が疲れて身動きしたとき、「リンゴは動かない」といったが、これこそセザンヌのフォルムにたいする姿勢をあらわした言葉にほかならない。

デッサンを見る楽しみはもうひとつある。完成された作品を解釈するうえで大きな示唆を与えてくれる。セザンヌにも『ナポリの午後』のように、今日でも解釈が百家わかれる作品がある。先人のテーマにどこまで追従し、どこから画家本人の「絵」になっていくのかが、ある程度まで自分なりに追求できる。その意味で、デッサンを「読む」過程は、読書過程とよく似ている。

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「デッサンとはフォルムではない。フォルムの見方だ」という有名な言葉をのこしたのはドガである。恣意的な気持ちをはさまずに、対象が問いかけてくるそのものをありのままに描く、画家と対象の緊密でいて緊張をあふれる関係を的確にとらえた表現だと思う。セザンヌのデッサンはドガのことばの実践でもある。ヴァレリーがセザンヌのデッサンを見たらどんな言葉をつぶやいたであろうか。
(N)
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by oxford-N | 2008-06-20 22:16 | 古本
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今日は気が重い。蘊蓄先生は画家であり、美術論集までものされている批評家でもある。その方のブログの軒先をお借りしているというのに、先生の専門領域に立ち入ろうとするのだから、無知と厚顔の二重のそしりを受けても仕方がない。忘恩の徒と、ののしられようが甘んじよう。でも蘊蓄先生から罵倒ついでに批評めいた言葉をいただければこんなにうれしいことはないから、「天使も踏まぬ」地へ恐る恐る入っていこう。

露店のひとつに、フランスの美術書をうず高くつんだ店があった。着古しの衣類のあいだにおかれていて、明らかに本はそえもの、どうでもいい感じであった。20冊ほどのなかから3冊えらび、5ポンドでどう?と、こちらから声をかけると、ああ、もっていってくれといわんばかりの調子で、たちまち商談成立。アンドレ・マルローの『空想の美術館』の立派な2冊本もあったが、だれかが買うだろうと却下した。

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1928年に〈今日の手帖双書〉の一冊として出た『クロード・モネ』をまず紹介しよう。製作年代順にモノクロ写真で作品がデッサンから油絵、水彩と66点収録されている。モネの肖像写真が7葉、そして巻頭に「モネ論」がおかれている。A4版大の紙型に、たっぷりと各ページ余白がとってあり、フランス独特の美意識を感じる。画家論の活字の組み方もさることながら、モノクロの再現もいい。小林秀雄だったか吉田秀和だったか、どちらか忘れたが、モノクロの方が色彩みたいに余計なものに惑わされずにいいといっていたが、たしかに一理ある。

じつはこの美術集は画家本位で求めたのではない。ただただ批評家の名前にひかれて買い求めた。でも著者名をLéon Werthと書いても誰も知らないであろう。それでいて誰もが知っている名前なのである。心にしみる献辞を集めたらおそらく世界でもトップクラスにくる献辞をささげられた人である。いやもっとも美しい献辞を、と言いなおしてもいいかもしれない。

「レオン・ウエルトに本書を捧ぐ」―子供たちの読者に、この本をひとりの大人に捧げるのを許してもらいたい、その人が親友だから、しかもその人は子供の本も理解できるくらい何でも理解してくれる人だから、いま、その人が寒さにふるえ空腹をかかえ、励ましを必要としているから。こんな理由ではだめというなら、子供のころのその人に捧げよう。大人はみんな子供だった、でも誰もそんなことは覚えていない。だからこの献辞をあらためよう―「子供のころのレオンへ」

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[Le Petit Prince, folio junior,1989, Gallimard より献辞の頁]

美しい献辞をへたな訳でけがしてしまったが、大目に見ていただきたい。ドイツの占領下で苦しむフランスの友を慮ってささげた献辞だが、そんな時事的な状況を超越している。サン=テグジュペリより22歳も年上であったレオンはユダヤ人でアナーキストであった。ふたりのあいだに共通点らしいものは何もみつからないが、心を許した仲であった。第2次大戦でサン=テグジュペリが帰らぬ人となり、彼の失望は言い知れないくらい広がった。終戦を迎え、平穏な日々がもどっても、「トニオ(サン=テグジュペリのこと)がいないのにどうして平和なのだ」と嘆き悲しんだという。書肆ガリマールは『星の王子さま』の特装版をつくり、ウエルトに贈ったが、5ヶ月以上、包装さえあけようともしなかった。

モネは批評家レオン・ウエルトを、「じつに絵画についてよく知っている。絵を見て判断を下せる男だ」と信頼していた。サン=テグジュペリはレオンのモネ論を読み、どんな感想をもらしたのだろうか。モネの没後2年してこのモノグラフは出た。(N)
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by oxford-N | 2008-06-20 18:19 | 古本